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2005年3月4日(金)
15.猫との愛の日々 その3

 一度すごく高いエサをやったら、二度とそれ以外は食べなくなってしまったうちの猫たちである。やはり値段の高いものは、猫にとっても旨いらしい。
 お陰でプクプクに太ってしまった。サジに至っては1年で1.3キロも体重が増えた。いくら男前でもデブじゃいかんだろう、とサジを眺めては思う今日この頃である。
 ま、その責任は私にあるんだけどさ。

 私の家がある場所は駒沢公園も近いということがあり、朝夕いろんな種類の犬を連れた人たちが散歩をしている。ただ、猫の場合は家の中で飼っている人が多いみたいで、野良猫以外はあまり見掛けない。

 犬猫に関して面白いなと思うのは、動物そのものよりも飼っている人間の側である。
 犬猫に人間と同じような名前を付けるのってどうなんだろうな? 子どもを持たない人にこの傾向が強いように感じられるのだが、偏見だろうか。
 また、アレクサンドリアとかエリザベスとか、妙にアールデコな名前を付けているのもいる。2DKにちんまりと暮らす小型犬には到底似つかわしくない名前だと思うのだが、個人の趣味を否定してもしょうがないか。今どき自分の趣味を押しつけられる相手は犬猫くらいだろうしな。 

 だけど、犬猫相手に話をするとき、
「○○ちゃん、お母さんはお買い物に行ってきまちゅからね 。いい子でお留守番してるんでちゅよ 」
 幼児言葉になる人。あれはいったい何なんだろう?
 それも犬猫に限ってである。牛や羊相手に幼児言葉を話すヤツはいないし、カメやアヒルにもたぶん使わない。
 犬猫はまるで自分の子どもと同じだから、ということなのだろうか。でも牛や羊だって、出産の時から立ち会い、我が子同然に育てるものだ。ただし、家畜だが。大きくなったら売りに出してしまうが。

 また、傍目には異常じゃないかと思うほど、溺愛している人たちもいる。
 自分の犬猫の写真をバッグや財布、革ジャンなどにプリントするというのが一時流行ったが(まだ流行っているのだろうか)、家に帰れば犬猫そのものがいるのに、なぜゆえに写真を持ち歩いたりするのだろう。
「うちの○○ちゃんは、可愛いでちょー!」
 他人に見せるためのもの。いわゆる自己顕示欲の一つなのだろうか。私には理解できん。

 自分の子どもの写真を持ち歩いている人は多いが、バックや革ジャンになっているのは見たことがない。そこまですると、親バカぶりもさすがに気味が悪いものとして捉えられてしまう。
 死んだ爺さんの顔をプリントしたTシャツ、なんてのはかえって大笑いできるかもしれないけど、実際にやっている人がいたら、やっぱり変人である。
 なのに、犬猫ならOK。誰もその人を変だとは思わないみたいだ。

 反対に、「うちの△△はこんなに大きくなりました」と子どもの写真をプリントした年賀状はたくさん来るけど、犬猫の写真を添えたものはほとんどない。その成長ぶりや変化がわからないからなのか。
 たまにあるのが、「家族の一員」的な紹介。しかし、もしこの夫婦に子どもが産まれたら、絶対に載せることはしないだろうって思う。
「うちの○○ちゃんもこんなヨボヨボの犬になっちゃいました」ってな年賀状は、それはそれでウケるとは思うんだが。

 ところで。トルコにもたくさん猫がいる。そのほとんどが野良である。
 その地域ごとに何人かの「猫婆さん」がおり、定期的にエサをやっているみたいだ。また、そうじゃない猫たちはレストランで残飯をもらったり、ゴミ箱を漁りながら生きている。そして、5年くらい生きたあと、病気になったり車に轢かれたりして、こてっと死ぬ。
 だから、道路にはたくさんの猫の死体が転がっている。

 以前は「あ、猫が轢かれている」と思った瞬間に目をつぶったりしていたものだが、最近では全然平気になった。
 きっと満腹になるまで食べたことはないんだろうなぁ、と思えるような痩せた体で道路に横たわっているのを眺めていると、つくづくうちの猫たちは幸せだと思ってしまう。
 猫は自分たちの幸せを比べたりはしないだろうが。




 
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