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2004年6月19日(土)
30.ネタの出どころ

「俺のことを書いたら、絶対に訴えてやるからな」
以前付き合っていた男にそう言われたことがある。
上等や。名誉毀損で訴えるなり、闇夜に待ち伏せするなり、何なりとやってくれ。そんな脅かしで書くことをやめるもんか。

だいたい書くための題材をどう使うかなんて、書く本人が決めることだろう。それは詞でも小説でもエッセイでも同じことだ。書くことを止める権利なんて誰にもない。
私は露悪趣味が入っている人間だから、自分のことをばんばん書く。プライベートなんて平気で金に換える。もちろん人のことも書く。人を見たり人と話をして面白そうだなと思ったら、それをネタに使ってしまう。

さらには私には嘘つきの要素も混じっているので、一つのエピソードをどんどん膨らませて、面白おかしく脚色することもする。
だって、書くものはあくまで「創作物」だから。
私は自分の想像力だけでやっていけるほど大した才能を持っている人間ではないので、自分が得た経験や想いというものを大事にする。いったん自分のフィルターをとおしてから、それを相手に伝えることをしている。
だけど、経験なんていつもいいものばかりではない。失敗もするし、恥もかくし、とんでもないマヌケなこともやらかす。そして、私はそういった「負の経験」の方が面白いと感じてしまうタイプなのだ。自分のイヤな部分の方が可愛いし、人のバカな部分の方が興味がある。

「人のことは絶対にかかないし、自分のプライベートも世間にさらさない」
そう断言した物書きの人がいたけど、じゃあ何を書くんだろうって思っちゃったよ。
自分の人生のきれいな部分だけ。自分の妄想のステキな部分だけ。誰も傷つけず、誰に対しても文句もなく、いい人な自分でやっていけるほど、私は崇高な人生を歩んでいない。

「あなたの書いてるものって、普段のあなたのやってることや言ってることと違うじゃない」
当然。私にとっては、及川眠子というのは詞やエッセイを書く「キャラクターの一つ」であって、それを世間に知らせることができれば充分なのだ。等身大の自分で、なんていう考えははなっから持っちゃいないし、書くことにおいて自分の実像なんてさして重要ではない。
実際の及川なんて、相手が勝手に想像すればいい。言い換えれば、書いているものから読みとってくれれば有り難い。

以前、作詞家でエッセイも書いている女性がいたのだが、彼女と付き合いがあった人たちは、
「あいつ、友達のふりして近付いてきて、いろんなことを聞き出して、それを全部書いちゃうんだぜ」
「ひどいよなー。俺も書かれたもん」
「あいつのそばにいると全部ネタにされるから、付き合わない方がいいぜ」
てな悪口を言っていた。でも、自分のことをいいように書かれたら、みんなそんなことは言わないんじゃないだろうか。悪く書かれたから怒っていて、付き合うなと言ってるワケだ。
でも、人を褒めちぎったような文章なんて面白いか? 少なくとも私は、自分が本当にいいと思ったもの以外は褒めない。金をくれりゃ別だけどさ。

物書きにとっては、書くことは存在証明であり自己主張であり、さらには仕返しでもある。
また、書くという行為は、時には人を傷つけたり苦しめたりすることにもつながる。そういう恐怖も孕んでいる。
だから、それこそ訴えられたり、仲間はずれにされたり、東京湾に浮かぶのも覚悟の上だ。誤解も非難も甘んじて受けられなきゃ続けていけない。。及川は嘘つき、でたらめ、欲深、多重人格、なーんて言われることだってある。
それを自らの責任だと受けとめた者だけが、ものを書く資格があるのだとも思う。

「俺は気にしないんだけどね。でも、人によっては怒るかもな」
そんな曖昧な言い方は気持ち悪いだけだろう。あんたが怒ってるのか怒ってないのか、それをはっきりしてもらわなきゃ、こっちだって対処に困ってしまう。
書かれた人たちは書かれたときだけ、みんな「善良な一般市民」面をして陰で悪口を言ったり、匿名で投書をするようなことをする。ほんとにムカついているのなら、いい人で振る舞わずに喧嘩を売ればいいだけなのだ。
もちろん私は「表現の自由」を武器に取って戦うけどね。

だけど、何でもかんでも思ったまんま書けばいいってことではないとわかっている。超えてはいけない一線というのもある。それは人としての倫理で決めるだけだ。
その上でこれからも私は、自分のことや人のことをどんどん書いていこうと思っている。
私は天才ではないし、大した才能もないことを自覚している。だから、身を削る。身を削ってまで嘘をつく。そして、人生まるごと金に換える。
それが私のやり方だ。




 
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