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江副浩正著『リクルートのDNA』を読んだ。
江副浩正氏とは、リクルートの創業者である。それくらいはみんな知ってるよね。
【最近、経済誌などでは「リクルートは人材輩出起業」と見られることが多い。(略)リクルートやコスモスOBが社長を務める上場企業は二十社近くにのぼる】(『リクルートのDNA』より引用)
この本は、なぜゆえにリクルートがたくさんの起業家を排出したのか、江副氏自身の経験をもとに、リクルートという企業風土について書かれたものである。
正直言って、起業家になりたい、なろうとする者にとっては、そんなに参考になるビジネス書ではないと思う。でも、それなりに面白く読めた。それはなぜなら、私もかつてリクルートという企業の「底辺」にいたからである。
私が所属していたのは、リクルートの販社(東京リクルート企画。すでにその会社はない)。中途採用誌のとらばーゆやB−ingの広告を扱う会社である。そこには和歌山から上京してからの1年間、営業職として勤務した。
その後は制作プロダクションに移り、1年間は入稿アシスタント(リクルートの広告を入稿する、いわば制作のお手伝いのような仕事)としてリクルートの営業所に出向。そして、作詞家としてフジパシフィック音楽出版に所属するまでの約2年間は、広告のデザインやコピーを作る制作として、やはり営業所に出向していた。
つまり、トータル4年間、リクルートに関わっていたわけだ。
制作プロダクションに移ったのは、とにかく営業という仕事が大嫌いだったからと、三菱ミニカ・マスコットソング・コンテストで最優秀賞を獲得したため、本格的に作詞家を志そうと思ったからである。そこは週3日の勤務(最後の方は週2日も行かなかった)だったので、残りの日はすべて作詞の仕事のために使うことができたのだ。
私がリクルートにいた時期は、ちょうとバブルの真っ直中。企業はばんばん人を採用し、人材採用誌にはたくさんの広告が載っていた。リクルート自体もたぶん儲かっていたのだろう。お給料もよそに比べて格別に良かった。
ちなみに、私が最後にいた制作プロダクションでは、週3日の勤務で基本給が確か158000円。契約社員だったので保険等はないが、決められたノルマ以上の仕事をすると、その分が基本給に加算されていく。一応9時半から6時までの勤務。ただ、忙しくないときには、途中で抜けたりもできた。
リクルートは不思議な会社で、その頃はまだ当たり前だった終身雇用を真っ向から否定し、中途採用でもやる気のある人間を重視した。また、毎月のように誰かが辞めて誰かが入社するという、人の出入りもめちゃくちゃ多かった。この会社は自分の最終目標のためのステップアップの場として考えろというのが、入社したときにトップから言われた言葉でもあった。
そんな企業風土であるからして、「作詞家になりたい」と思っている人間に対しても非常に寛容。
「どうせ、売れっ子作詞家なんかになれっこないさ」
「ま、夢は大事に。頑張って」
みんな心のどこかでそう思っていたのかもしれないが、それでもレコード会社に売り込みに行きたいなどと言えば、仕事が立て込んでない限りは、何の問題もなく抜けさせてもらえた。
制作として仕事をしていたときは、私はリクルートに雇われている人間ではなかったので、たぶんそういうわがままも許してもらえたんだろうと思う。
また、勤務していた最後の頃にはすでにヒット曲もあったので、大幅な遅刻や欠勤でさえも、みんな「仕方ないなー」というような感じで、きつく怒られることもなかった。今考えると、おそろしくいい加減に働いていた。
だから、リクルートに対しては(と言うより、あの頃一緒に働いていた人たちに対してだな)、感謝こそするものの恨みや憎しみはまったくない。
ただ、最初に勤めたリクルートの販社。ここでの仕事は、本当にイヤでイヤでたまらなかった。
何人かの同僚を除くと、一緒に仕事をしている人たちにも馴染めなかった。毎朝目が覚めた途端、出社しない言い訳を考えるのが習慣になっており、結局何も浮かばないまま仕方なく出社。とりあえず朝礼だけは出て、その後は喫茶店で時間潰し。山手線を何周もまわったこともある。そんなもんだから、もちろん営業成績は最悪。毎週のノルマさえクリアーできなかった。
仕事は大嫌い。だけど、生活のために働かなくてはならない。作詞家になりたい。でも、どうやればなれるのかがわからない。自分の未来も見えないまま、苦しくて不安で…。どうしようもない日々を1年間おくった。
そんな私を救ってくれたのは、やはりコンテストで最優秀賞を取ったこと。あの賞を取れたから、会社を辞める踏ん切りが付いたし、勇気も得た。
しかし言い換えれば、こんな仕事をいつまでも続けていたくないと思ったからこそ、頑張れたのかもしれない。そういう意味では、私はリクルートを次へのステップアップの手段として使えた。
さらに、あの頃は気付かなかったが、自分が一人の社会人として生きるために、役に立つノウハウをたくさん得られたことも大きい。
「義務を果たして、権利を主張しろ」
トップがいつも社員に言っていた言葉である。私が自分の会社を立ち上げ、社員を雇ったとき、この言葉の持つ意味をしみじみと理解した。
また、遅刻や欠勤は当たり前。たまに会社に出てきてもサボってばかり。ろくに営業成績も上げられないような社員に、よくぞ給料を払っていてくれたものだ。さすがに最後、
「今月いっぱいで辞めます」
上司にそう言いに行ったら、
「今週いっばいでいい」
と言われたが…。とんでもなくお荷物な社員だったのだろう。
あの頃は自分の都合でしか物事を考えられず、自分はつらい、自分は不幸だとばかり思っていたけれど、会社には実質的な被害を与えていたわけである。ただただ、申し訳ない。
また、上京したてで右も左もわからなかった私が、東京の地理を覚えられたのも、営業職を1年間やったお陰だと思っている。
なんで、そんなことを急に思い出したかと言うと…。
江副氏の本を読んだからではない。理由は東京リクルート企画の、当時同僚だった女性から「同窓会」の案内が届いたことにある。
私は当時の同僚たちとは、現在ほとんど交流がない。「及川眠子」という名前もまったくのペンネームだ。よく探したなぁという思いと同時に、四半世紀近くも前に、たった1年勤めただけの私を覚えていてくれたことにビックリである。
思わず懐かしさがこみあげてきて、行くという返事をした(その顛末はまたいずれ)。
長い長い時間が過ぎてしまえば、どんなにつらかったこともただの思い出にしかすぎない。今の時間を共有していないからこそ、お互いに微笑んで会えるとも思う。
【私は凡庸な人間である。私はリクルートがこれだけの成功を収めるとは、当初は予想だにしていなかった。しかし、ひたむきに学び、自分の時間のすべてを割いて精一杯働いた。それは私の生き甲斐であり快感でもあった。その快感はいまでも私の心に残っている】(『リクルートのDNA』より引用)
あの頃に戻りたいかと訊かれれば、死んでも御免である。でも、あの頃があったからこそ、現在の自分がある。
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