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2006年6月24日(土)
31.自意識の行き場

 電車の中で化粧をしている子、ものを食べている子。道路やコンビニ前の地べたに座り込んでいる子。派手な洋服と化粧身を包み、徒党を組んで街を往く子。
 大人たちは、そういう子供たちに遭遇するたびに眉をしかめ、でも注意したり声をかけたりすることもなく通り過ぎる。まるで道端に捨ててある、未回収のゴミを見るかのように。

 先日、私の友人が電車に乗ったところ、シート一列を占領して寝っ転がって弁当を食べている高校生の男の子たちがいたそうだ。周りの客たちは、もちろん見て見ぬふり。逆ギレされると怖いから。だけど、その光景は誰の目にも不快であるのは確かなようだ。
「親の躾がなってないんですよ!」
 友人はそう吐き捨てた。
 子供は親を映す鑑である。彼らの親と言えば、ちょうど私と同じ年代か。礼儀作法もろくに知らない親が増えているのは、自分を含めた周りを見渡しても、何だか妙に納得がいく。

 しかし、彼らは案外親や先生の前ではお行儀もちゃんとした、いい子だったりするのかもしれないな。そういう思いも心をよぎる。どんなに厳しくしたって羽目を外すときは外すさ。
 また親なんて、たとえばよその家には靴を揃えて上がりなさいとか、ごはんを食べるときはちゃんとお茶碗を持ってとか、その程度の躾しかできないものだ。最低限のマナーさえ教えておいて、あとは子供の判断に任せるしかない。
「電車の中でお弁当を食べないように」
 なんて小言をくりかえすような親は変である。

 それよりも、世間に逆らうような行為は、私はむしろ彼らの自意識の裏返しのような気がしてならない。
 自分の経験にすりあわせて考えてみると、10代の頃はめちゃくちゃ自意識が強かった。また、「自分はほかの人間とは違うんだ」という特別意識も。さらに、大人が決めたレールの上を歩きたくないとか、常識の枠組みの中に縛られたくないといったような思いも。
 理論的ではないにせよ、何だかモヤモヤとした気持ちを抱えながら生きていた記憶がある。そして時には、誰かの注目を集めるために、自分たちなりの表現に出る。

 電車のシートに寝っ転がって弁当を食べること。すなわち、「社会に対するささやなか反抗心」である。
 一見「負」とも取れる行動の中で、彼らは「自分たちを見て」というふうに訴えているのではないだろうか。無視されること、イコール意識されていることだとも捉えているのかもしれない。
 いつの時代も子供にとって、「大人は敵」である。私だってそうだった。わざと汚い格好をしたり、乱暴な言葉を使ったり、時には親が反対することほど喜んでやっていた。

 子供なんて、親の理想どおりにいかないさ。反抗しながら無茶をしながら、自意識もそのうち薄れてゆく。むしろ、何の不可もなくいい子を演じている子供の方が心配だ。
 親はただ受け止めてやればいいだけ。悪いことをやったなら叱るのは当然だけど、それでも見放さないよという安心感だけを与えてやればいいと思う。理解なんてしなくていい。だって、理解できっこないもの。
 よく子供と同じような格好をして、ものわかりのいいふりをしている母親がいるけど、自分を低年齢化してまで子供と目線を合わせたいのか。コビる親はナメられる。私なら、そんな母親を尊敬はできないな。
 いつかギャルも卒業しなきゃいけない。きっとこのままでいいはずはない。子供は子供なりに、ちゃんとそういうことを考えていたりする。
 むしろ10代の頃に、そういった自意識過剰な自分を消化できている子たちの方が、まともな大人になるんじゃないだろうか。

 逆に、若い頃に自意識を押さえつけて生きてきた子たちの方が、長い間苦しむような気がしてしまう。
 2ちゃんねるなどに他人の悪口を書きまくり、注目を集めようとする人間がいる。その行為を批判されたり攻撃されたりすると、何だか自分がスターになったような気持ちになるのか、かえって快感を得てしまうようなヤツら。
 何か事件が起こるたび、その加害者の家族や時に被害者の方にまでも、匿名で嫌がらせをするようなヤツら。
 きっと皆、自意識を消化できずに今まで来たのだろう。
 渋谷の道端に座り込んでパンをかじりながら、往来でパラパラの練習をしているギャルたちの方が、よっぽど健全。よっぽど胆が座っている。

 20歳を過ぎてしばらくすれば、つまりは社会に出てしまえば、彼らの自意識は違うものに変化する。そして、私のように40歳をとうに過ぎれば、己れの限界を知り、自分は決して特別ではないということに納得するようになる。
 ただ、自意識は必要である。なぜなら、自意識こそが向上心につながるものだから。
 人様に迷惑をかけるような行為は、いけないに決まっている。だけど、生きているうちには、迷惑をかけてしまうことだって多々ある。そんなときは本人が詫び、同時に親も責任を取るべきだ。
 それでも死なれるよりはいい。人を殺するよりは、もっといい。
 奈良の放火殺人事件を観ながら、そう思った今日この頃である。




 
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