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「幸せですか?」
そう訊かれた場合(結構こういうことを訊く人がいるんだよなぁ。なぜ人が幸せか不幸せかが気になるんだろう)、
「そこそこ」とか。
「まあまあ」とか。
「普通に」とか。
いつもそんなふうに答えている。
だって、幸せってある瞬間に「感じる」ものじゃないか? 決して「なる」ものではなく、「状態」を表すものでもないと思うからさ。だから、「ここ半年くらいをトータルして、さらにその平均で考えてみると…」という意識で、前述のように答えざるを得ないわけである。
「幸せになっちゃうと、詞が書けなくなる」
わかったような顔で、そんなことを言う人もいる。
不幸だから詞は書けるってか? うんと不幸な時期は、もう生きるのも苦痛になり、詞を書くどころではないぜ。
何不自由ない暮らしをしている人だって、一抹の寂しさや得体の知れない不安感に襲われることがある。他人のささいな一言に傷つくことだってある。ぼんやりとした日常の中において、むしろそういうバラのトゲ程度の痛みが、ものを書かせる機動力になるのさ。
それに寂しさやせつなさは、誰かに埋めてもらうものではない。自ら何らかの方法で、解決をしていくものではないか。
私の場合、それが「ものを書く」ことであった。ゴルフ教室に通ったり、手芸に夢中になったりして、そういう気持ちとうまくバランスを取り合っている人たちもいるだろう。人によって方法が違うだけ。でも、
「幸せになっちゃうと、パッチワークができなくなるよ」
とは誰も言わないのだ。言ってやれよ。
しかし、ふと考えてみると。幸せって「感じる」ものなのに、不幸って「なる」ものだよなぁ。
さらに、自分でも気付かないうちに、どんどん不幸へと不幸へと自分自身を導いているような人もいる。不幸は人を選んで訪れるわけではない。人が不幸を選ぶんだ。ってのは、そういう人を見ていてつくづく思うことである。
私にもそういう時期があった。ほんの一瞬だったけど。
もちろん仕事のためではない。仕事は思いどおりにいかないからこそ面白いし、小さな挫折と成功と、そしてトラブルの繰り返しで成り立っているものなのだ。
思いどおりいかずに苦しむのは、むしろ恋愛である。特に私は、仕事がグチャグチャの連続なんだから、せめて恋愛くらいサクサクとこっちの思ったとおりに進んでくれよ、と思うタイプであった。
男とモメている。さらに、そこに第三者の女が登場。おまけに、金の問題なんかも絡んじゃって…。
ああっ、うざってえ。だったら別れちゃえ。その方が面倒くさくなくていいやってことで別れたのだが…。
おそらく自分の中の恨み辛みが未消化のままのうちに相手を切ってしまったからだろう。一人で過ごすうちにじわじわと、自分がまるで悪者にいじめられている可哀想なお姫様のように思えてきた。
「なんで私だけがイヤな思いをするのよ!」
そこからブチ切れた。
恋愛なんて、そこに関わった人たちがみんなツラい思いをしているのだ。それに気付かず、自分一人が「不幸にさせられた」ような気持ちになり、その矛先は相手に向かう。ただただ相手を攻撃するのみである。
夜討ち朝駆け、電話の応酬である。会ってくれと言うにはプライドが許さないから、電話でのみ相手を罵る。
会う友人すべてに、相手の悪口を言いまくる。同業者でもあったので、音楽業界で生きられないようにしてやろうかとも、本気で考えた。
そんなことが1ヶ月くらい続いただろうか。相手も疲れ果てていたけど、私もくたくたである。一生こんなことを続けるつもりかとも、自分自身が怖くなっていた。
眠れないし、ものも食べられない。毎晩のように酒を飲みに行き騒いで、その合間に仕事をやっていた。若かったんだなぁ…。今だったら、そんなことさえできないや。
でもあるとき、ほんとにあることがきっかけで、そんな行為がピタッと終わったのである。
その当時ヒットしていた、やしきたかじんの『東京』という曲。これは私が詞を書いたものである。その曲をカラオケで歌っている人を、直に見たときである。
一緒にいた友人が、私に言った。
「あんたが書いた歌を歌ってくれる人たちがいる。だから、あんたは不幸になる価値があるのよ」
自分の不幸でさえも作品に換えて、さらには金や名誉にも換えていける私は幸運だと、彼女は言いたかったのだろう。ああ、確かに。
作詞家であることを奢っているわけではない。しかし、物書きのプロであると胸を張るのであれば、また身を削ってものを書いている自負を抱いている限りは、自分の不幸に溺れてしまってはいけないのである。
また、相手を追いつめて陥れることで、自分の人生を築こうとしてはいけない。相手の不幸を、自分の幸せだと勘違いしてはいけない。そんなことをすれば、せっかく手の中に握りしめている幸運も逃げていってしまう。そのことに気付いたのだ。
不幸の寸止め。…難しいけどね。
一度そういう経験をしてから、その後は別れ際には言いたいこと全部言って暴れるようにしている。もしくは、もううんと嫌いになるまで別れないとか。別れた後は引きずらない、グチャグチャしないためにもね。
だってさー。あの不幸劇を演じていたときの私は、きっとひどい顔をしていたと思う。相手だけじゃなく、自分をも恨んでいたから。私は自分のことが大好きなので、自分が否定してしまうような女にはなりたくないのだ。
また、不幸の真っ直中にいたときの私は、人の優しさやありふれた喜びに対しても、ひどく鈍感になっていた。幸せを運ぶものに鈍感になってしまえば、人生はただ苦痛の繰り返しなだけだ。
あれから10年。ちょっとしたきっかけで、久しぶりにその男と電話で話をする機会があった。
愛情なんて、今はもちろん欠片もない。また、恨みさえない。実に淡々とした気持ちである。相手もきっとそうなのだろう。
そこそこ幸せでいられるコツを掴めば、過去で心が揺れることもない。 |