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2006年2月14日(火)
8.「才能」というもの

「才能のある人はやっぱり(うんたらかんたら)…」というようなことは、しょっちゅう言われる。あまりにも言われ続けたものだから、そう言われることにも慣れてしまい、何も感じなくなった。

 作詞家になりたての頃は、
「自分の才能だけで食べていけるなんてスゴいね」
 などと言われても、
「いや、運が良かっただけですから」
 てなことを言って誤魔化していた。
 謙虚であったと言うより、むしろ心の中では、努力を評価されずに「才能があるから」という一言で片付けられてしまうことに憤慨していた。
 どんなに才能があろうと、努力が伴わないと夢は叶わない。そういうことをわかってほしかったのだ。

 しかし、月日は人を丸くもするし、いい加減にもする。今では才能がどうだこうだと言われても、適当に受け流している。
 また、とりあえず20年以上この世界でやってこられて、まだぼちぼちとであるが仕事も来て、経済的にも困っていないということは、それこそ才能のお陰なのかもしれないと感じている。

 私は以前自分の著書の中で、才能とは何なのかということについて触れたことがある。

【作詞家にしろ何にしろ、長くやっていればテクニックが身についてくる。一割の才能と九割のテクニックがあれば、ちょちょいと何でも書けてしまう。じゃあ、その才能っていったい何なんだよ、という話だろう。
 私が思うに才能とは、その人自身の感性やひらめき、センスに加えて、理解力の良さや分析力、時代を見抜く目、対応の早さ、さらには執着心、マイナスをプラスに換える力、社会性。そんなものすべてが才能だ。容姿や人あたりでさえ、私は才能のひとつだと思う。不思議なことに、光の当たる場所に出てこられる人間は、それらすべてを兼ね備えているのだ。そして、九割のテクニックを支えるものは、一割の才能なのだ。
 そのどれかひとつでも欠けていると、たとえ世の中に出てきてもすぐに消えてしまう。また、本当に才能のある人間は、たとえ本人が拒否しようとも、誰かが隠そうとも、絶対に出てくる。そんなものなのだ。】
    (及川眠子著『夢の印税生活者』より)

 誰よりも努力をしているのに芽が出ない。そんな人たちはたくさんいる。シンガーソングライターや作詞家になりたいと願う人たちの中から、いったい何パーセントの者たちがその夢を叶えられるのだろう。
 そして、その明暗を分けるものは、やはり才能という曖昧なものでしかないのだろうか。

 私はずーっと才能っていったい何なんだろう、と考え続けてきた。それはなぜなら、私自身が大して才能のある人間だとは思っていないからである。
 私より上手な詞を書ける人はたくさんいる。仕事に対して貪欲な人もたくさんいる。そんな中でちょっと運が良かったからいくつかヒットを出せて、そこそこ器用だから何にでも対応できて、というのが私である。

 まぁでも、一応は現役の作詞家ではあるから、何かアドバイスをもらいたいと思うのだろう。私のところにもよく作詞家やシンガーソングライター志望の人たちから、質問や相談が来ることがある。
 で、ふと気付いたのだが。
「及川さんは詞のテーマをどこから探してくるのですか?
「詞を書くために、日々どのようにアンテナを張りめぐらせていますか?」
 というような質問が多いことに気付いた。

 書きたいことのない人間は書かない方がいい。私は常にそう思っている。ものを書いて暮らしていくのは気楽そうでいいなぁ、という思いばかりが先に立ち、肝心の書きたいことがないのは本末転倒。
 今までは、歌詞のネタはどこから拾えばいいのでしょうと訊かれれば、本を読みなさい映画を観なさい他人が書いた歌を聴きなさい、というようなごく当たり前の答えを返してきた。
 でも考えてみれば、私自身そういうものからネタを拾っていないことの方が多いんだよなぁ。

 本は読むけど、詞に関係ないテーマのものばかりだし(私は基本的に、戦争や犯罪などのノンフィクション系しか読まない)。映画だって滅多に観ない。もちろん「趣味」で音楽を聴いたりもしない。
 なのに、詞は書けるのである。テーマに困ることもほとんどない。
 また、アンテナを張り巡らせながら生きている実感さえない。私の周りのOLや専業主婦と変わらない、本当にごく普通の日常をおくっているだけだ。
 感受性だって特別鋭くないし、感情の起伏が激しい人間でもない。そのぶん頑張っているかと言うと、まったくそれもない。年を取って体力と気力が失せつつある今、集中力は散漫になり持久力もなくなった。
 だけど重ねて言うが、詞は書ける。

 それではたと気付いたのだが、才能とはもしかして「努力をしないでも得られるもの」ではないだろうか。
 才能のある人間は、普通に暮らしていても、日常のひとコマのようにものを生み出せる。
 反対に、才能がない人間は生みの苦しみやらや不意のひらめきやらを必要とする。常にピリピリと周りに注意しながら、何かテーマにできるものはないかと思い続けるのってしんどいだろうなぁ。

 たとえば電車の中で、隣に座ったカップルが会話している。その内容が歌詞につながっていったりする。でも、それはアンテナを張り巡らせていたから得たものではなくて、ごく自然に耳に入ってきたものにすぎない。
 大して何も考えずに生きていても、琴線にふれたり、「おっ!」と思わせてくれるような出来事に遭遇することは多々ある。それらを心のフックに引っかけておいて、何かあったときにさっと取り出せる。そんなことが当たり前のように出来るのが才能なのかも。

 かと言って、才能があるからと言って、努力をしなくてもいいというものではない。逆に1パーセントでもいい、そこに才能があれば、100の努力をすれば「1×100=100」になるってもんだ。
 私は明らかにそういうタイプだった。だから、才能があることよりも努力をしてきたことを評価されたかったのである。
 だけど悲しいかな。才能が0のものはいくら100の努力をしても1000の努力をしても、イコールは0なんだよな。
 才能が0、というのはきっと誰もが認めたくないことなんだろうけどね。




 
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