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2005年8月25日(木)
67.暴力はいかんざき

 候補者もほぼ出揃ったようで。
 公示そして本番の選挙までは、まだまだ何が起こるかわからない感じだけど、各党党首は演説まわりやらCM撮影やらで大忙しなようである。
 CM撮影と言えば、公明党の神崎代表のあの「名フレーズ」が4年ぶりに復活した。
「そうはいかんざき!」

 世の中にはオヤジギャグという邪悪なものが存在する。それを特に好んで使いたがる人たちがいる。そのほとんどが根が真面目なオヤジである。
 同情からくる周囲の苦笑いをウケたのだと勝手に勘違いして、5分おきくらいに駄ジャレを連発するのだが、正直聞かされる方としてはたまったもんではない。延々と聞かされるうちに、この世からいなくなってくれと願ってしまうこともある。

 前回政治家の言葉のセンスについて書いたが、及川の四十余年の人生の中でも、おそらくワースト・スリーに入るくらいの勢いで、
「そうはいかんざき!」
 この言葉を聞くたびに、得体の知れぬムカつきが体中を駆けめぐっていく。
 公明党では誰も止めなかったんかい。ほんとにあれがキャッチだと思っているんかい。…ただただ、センスを疑うばかりである。

 ところで、毎日が選挙中心の報道をしている中で、それ以外の気になる話題と言えば、駒大苫小牧高校の暴行事件である。
 何か変だよなー、あれって。学校側と生徒の父兄が言ってることも全然違うし。そう感じている人も多いのではなかろうか。
 事件が発覚したときは、野球部長が部員を「3、4発平手で殴った。その後スリッパで頭を殴った」ということだったのだが、父兄側に言わせると「バッドの柄やら平手やらで30 40発くらいは殴った」だそうだ。その発言を受けて詳しく調べた学校側は、今度は「10発くらいらしい」となった。
 当の部長と生徒本人たちは表に出てくることもなく、代理者同士が伝え聞いた話をああだこうだと述べている。

 しかし、私が最も気になるのは、何発殴ったかということではなくて「なぜ殴ったか」である。
 少なくとも今の時点では他の部員からは同様の話は出てきていない。なぜ彼だけが殴られたのかということも、問題にしなければいけないことではないだろうか。本当にその部員だけがどうしようもないから、思いあまって手を上げたということだってあり得るはずだ。
 また、指導者が生徒を殴るという行為の上で、無視してならないのは「彼らの関係はどうなのか」である。つまり、普段は彼らの関係が良好なのか、部員はその部長を信頼していたのかということだ。
 お互いに信頼しているのとしていないのでは、殴るという行為の持つ意味が全く変わってきてしまう。

 物事の経過や事情を追求せず、殴った殴らないだけということだけにこだわって、挙げ句優勝旗返還も辞さないだとか秋の北海道大会の出場を辞退するだとか、単なる「結果の処理」をどうするかということだけに終始している。
 部長が部員を殴ったことが、なぜ連帯責任になるのか。ほかの部員たちが哀れでならない。
「暴力はいかんざき!」
 すべてをそれだけで片付けてしまっていいものだろうか。

 確かに、暴力がいいとは決して言わない。だけど私は、時には手を上げることも必要だと思っている。口で言ってもわからない人間には、体でわからせるしかないと考えるからである。
 だけど、そこに愛情や信頼があれば、たとえ殴られても相手を恨んだりすることはない。

 よく「褒めて伸ばせ」とか「個性を尊重して」みたいな教育論を吐く人たちがいる。それも大切だろう。でも、世間のことを何もわかっていない、精神的にも完全でない子どもは、時として手を上げたり頭ごなしに叱ることだって必要だと思う。
 子どもは大人のように理論だけでは理解できない。悪いことは悪いことだと、ただ覚えさせていく。それが躾というものであり、言葉で体でくりかえすしかない。
 常識や秩序を学ばせるための手段をためらっていては、過保護な子どもしか育たない。子どもに舐められる大人であってはいけないと、私は思う。

 また、個性なんて親が育ててあげるものではない。どんな常識の檻に入れようと、どんな窮屈な生活を強いようと、個性なんて勝手に育っていく。
「自由に育てたい」と言う親もいる。まず彼らに不自由を教えなくては、自由の持つ意味がわからない。自由と放任は違うのだ。その不自由さを教えられるのは、子どもが親の手元にいるあいだだけである。
 悪いのはいつだって政治、学校、社会と、何でもかんでも他人のせいにする親に育てられた子どもに、果たして責任感というものが生まれるだろうか。世の中を渡っていく知恵や強さが身につくだろうか。

 私が子どもの頃は、教師による軽い体罰なんてのは日常茶飯事だった。それに、先生に殴られたくらいでいちいち親に報告しなかった。また悪さをしたときは、親も子どもにガンガン手を上げた。
 学校では先生の言うことを聞きなさい。家では親の言うとおりにしなさい。常にそう強要されたけど、私はそういった教育のせいで自分が没個性の人間になったとも、自由じゃなかったとも思ったことはない。

 私には子どもがいない。だから、そんな勝手なことを言えるのよ、と言う人もいるかもしれないが、たとえ誰の子であっても未来の日本を背負っていく一員に変わりはない。だから、私は「大人として」の責任を放棄しない気持ちでいる。
 私は迎合しない。伝えたいことがあれば、自分で場所を見つけて言い続けていく。また、誰かのせいにはしない。それが私の責任の取り方である。

 選挙まであと2週間とちょっと。
 次の政治に未来を託すとともに、自らも子どもたちをしっかり躾することが大切である。
 たとえ悪政でも、ステキな若者がたくさんいる社会の未来は明るい。




 
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