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2005年7月13日(水)
53.クリエイターと名乗る人たち

「俺たちクリエイターはさぁ…」
 自分をそういうふうに言う人たちは、たいてい人より上段に構えたものの見方をしていると感じるのは、私の偏見だろうか。
「まっ、人とは違うんだよな」
 って自負心がありありで、たかがものを創るだけの人間がそんなにエラいのかよ、と思ってしまう。

「売れたら文化人。売れなきゃただの貧乏人。おまけに社会不適合者」
 とは新人の頃によく言った言葉である。だから、早く売れたいねー、頑張ろうねーとみんなで励まし合ったものだ。
 そんでもって、ちょっと売れれば、世間は思いのほかチヤホヤしてくれる。
「さすが才能のある人は違うわね」
「才能一本で食べてるんだものね、スゴイよね」

 はっきり言って、売れる売れないは運の力が大きい。もちろん、その運を呼び込んでくれるものは、自分の努力と人との縁なんだけどさ。
 でも、やっぱりたかがものを創るだけの人間であると思うのだ。才能が評価されたからと言って、自惚れていてはいけない。自分が立派な人だなんて、人に対して主張してはいけない。
 …と、私はいつも自分をそう戒めている。

 だけど、それは私の考え。生み出すものが個々に違うように、考え方も違って当然。
「俺の才能を提供してあげてるんだから、人が頭を下げて当たり前」
 そうまで言いきった人もいた。
「だって、我が身を削ってるんだよ。削ったものを人に与えているんだよ」
 スーパーマーケットでパートをしている人たちは、自分たちの時間を与えることでお金をもらっている。車の開発部門で働く人たちは、自分たちの技術やアイデアを会社に提供することでお給料をもらえる。
 それとどこが違うのだろうか。なぜ「身を削る」クリエイターの方がエラいなんて感じちゃうんだろうか。ちゃんちゃらおかしいや。

 私は、今の仕事が好きである。
 いつも胸の中であふれてくる思いがある。書かないでおこうと決めても、それを表現したくてたまらなくなる。
 また、誰といても孤独感を埋めることはできない。自分の心の中にぽっかりと隙間が空いたような感覚にとらわれ続けている。また、その隙間を埋める作業が、私にとっては「書く」ということだったりする。
 そして、たまたま世間に評価され、作詞家という肩書きを得て、20年ほど過ごしてきた。それは私にしてみれば、すごくラッキーなことだった。
 言葉なんていう、言ってみれば「みんなのもの」を使って仕事をしてきた私である。それでお金が得られるなんて、神様に感謝したいくらいである。

 だけど、もし私の書くものに誰も見向きもしなくなったら、それは仕方がないことだと思っている。
 今さらほかのことができるとは思ってもいないが、たぶん生活のために何らかの職に就かなければいけない。作詞家という肩書きも潔く下ろすだろう。
 でも、きっと書くことはやめないだろうとも思う。

 まだ私のことを必要としてくれ、依頼をしてくれる人たちがいるから、私は作詞家でいられるだけで、クリエイターという自負心にしがみつきたいとは思っていない。
 書きたいという気持ちと、クリエイターでいたいという気持ちは、まったく違うところにあるのだ。
「俺たちクリエイターはさぁ…」
 特別な存在だと言わんばかりに、自己をひけらかす。相手を見下す。
 それって恥ずかしくないか?

 もちろん、そんな人たちばかりではない。世間からクリエイターと呼ばれる人たちの中には、むしろ謙虚にコツコツとものを創り上げている人の方が多い。
 すごく皮肉で辛辣なものを書いている人たちが、実はとてもナイーブで優しい人だったり、逆に子ども向けの柔らかいタッチのものを創っている人が、実際はひどく冷酷で金の亡者だったり。
 作品とそれを創っている人たちの間には、時にはそんなギャップがあったりするけど、「クリエイターと呼ばれる自分」より「ものを創る自分」を大事にしている人には、やっぱり素敵な人が多い。

 ああ、そう言えば。
「俺たちアーティストはさぁ…」
 と、自らアーティストと名乗るヤツらもいっぱいいるなぁ。

 しかし、最近では料理をする人や建物を造る人やビーズのアクセサリーを作る人たちまでもが、アーティストやクリエイターと呼ばれていたりする。
 幅が広がったということなのか。なんとなくあいまいにしてしまおうぜ、という暗黙の了解なのか。それとも、ただ単にエバりたい人たちが増えただけなのか。
 そのうち、道路工事をする人や竿竹を売っている人や新聞配達まで、アーティストやクリエイターと名乗っちゃうかもしれない。一億総アーティストの時代が来るかも。
 まさか。そんなことはないか。




 
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