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及川、目の良さだけが自慢であった。
過去形の書き方をしているのは、ここのところ急激に目の衰えを感じているからだ。
もちろん老眼である。まぁ年齢的にも妥当。仕方ないかなとは思ってはいるのだが…。
本や新聞を読んだりするぶんにはまだ平気である。明るいところでなら、文字を書いたり針に糸を通したりなどの細かい作業も問題はない。
しかし気付くと、ずいぶん本を離して読んでいる。また、ずっと本を読んでいて、ふと「今何時かな?」と思って顔を上げ時計を見ると、文字盤がぼやけて見えないことがしばしば。
さらに、ちょっと暗くなるともうお手上げ。太陽光の下では読めていた本も新聞も一気に読めなくなってしまう。文字を書くのもつらい。
たとえ明るくても、辞書やCDのライナーなどは今ではほとんど読めない。虫眼鏡を使って読むしかない。
なんで歌詞カードってあんなに小さい文字で書いてあるかなぁ。打ち合わせのとき資料用にCDを出され、それがまったく読めなくて、ディレクターに拡大コピーを取ってもらったこともある。なんかすごく悲しかった。
ものすごーく小さい文字の名刺も、もらった瞬間に腹が立つ。デザインに気を遣ってなのかもしれないけど、あんたの名前さえ読めませんぜってこともよくある。これじゃ名刺の役割が果たせていない。
また、目が悪くなることによって、集中力もなくなってきた。何かをやりかけてもすぐにイヤになってしまう。何時間も机に向かってシコシコ書いていた日々が嘘のようである。
友人である軍事ジャーナリストの加藤健二郎氏はものすごい近視で、
「世の中が常にぼやけていると、真面目に物事を捉えようとしなくなる」
みたいなことを以前言っていたが、老眼になり私にもその気持ちが少しわかるようになってきた。
と言うか、私の場合もともとの目はいいので、遠くのものは相変わらずよく見える。だから、見えるものはそのまま受け入れて、見えないものは見えなきゃいいやですっ飛ばすようになってしまった。つまり、物事を捉えるにおいてムラが出てきたのだ。
老眼鏡を作ってしまえば問題はあっさり解決するのだろうが、困ったことに日によって見えたり見えなかったりする。そして、中途半端に見えるものだから、老眼鏡を作ることにためらいを覚えてしまうのである。
医者に言わせれば、
「今は見えたり見えなかったりしてつらいですけどねー。大丈夫、あと2年もすれば立派に見えなくなりますから。そしたら老眼鏡を作りましょうね」
らしいので、とりあえず今は老眼鏡は作らずに、見えないものはシカトして日々をおくるようにしている。
このあいだ、友人と久しぶりに食事をしようということになった。
彼女は私よりちょっと年上。最近老眼が進んじゃってと同じように嘆いている。しかし、彼女もまだ躊躇する部分があるのか、老眼鏡を作っていない。
そこは薄暗いレストラン。ウェイターがメニューを持ってきて、
「今日のお薦めコースはこちらでございます」
と指し示す。
「あ、じゃあそれでお願いします」
二人ともそのコースに決め、出てきたパンや前菜などを食べ始めたが…。
「ねぇ、この後何が出てくるの?」
彼女が私に訊く。
「えっ、わかんないよ。あなたメニュー見てたじゃない」
「見てたけどさ。この店暗いし、メニューの文字は小さいしで読めなかったわよ」
「私も全然見えなかった。だから、あなたに任せちゃおうって思ったんだ」
「えーっ、ほんと。…ところで、このコースいくら?」
「…わからん」
「げっ!」
お互い見栄を張ってないで、老眼鏡を買えよ。
「あたし、最近白髪が生えてきちゃって…」
なんて嘆いてた頃が懐かしい。今じゃ白髪なんて数え切れないくらいある。誰も白髪の話題さえ出さない。もう当たり前のことだから。現在の話題は主に老眼、シミ・たるみ、中年太りである。
そして、あと何年か経てばきっと話題の中心は更年期障害になり、そのあとは年金と介護の話になって、お墓や葬式の心配をしながら死ぬんだろうなぁ。
まぁ話のネタには事欠かない、ってのが唯一の利点か。
「あたしももう若くないのねぇ…」
と思い始めてからの、なんて長いこと。
それでも人は平等に年を取っていくから、同世代の友人と話しているとなんとなく心が救われる。あなたも老化、私も老化。互いに手を取り合って道を歩いて行きましょう、てな連帯感も生まれるし。
少し前までははっきり見えていた文字や針の穴が見えなくなることは、確かに怖いしせつなくもある。だけど、きっと見なくて済むものも生まれる。気付かないことの幸運も得られるかもしれない。
じゃなきゃ生きていく値打ちもないしね。
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